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2008/10/04 (Sat) 16:18
何故橋下弁護士に賠償命令なんだ?

●何故橋下弁護士に賠償命令なんだ?
 橋下弁護士に800万賠償命令 光市懲戒請求訴訟で広島地裁判決
タレントとして出演したテレビ番組で、山口県光市の母子殺害事件の男性被告(27)=死刑判決を受け上告=の弁護団への懲戒請求を呼びかけたため業務を妨害されたとして、広島弁護士会所属の弁護士4人が1人当たり300万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が2日、広島地裁であった。橋本良成裁判長は橋下弁護士の発言は原告の名誉を棄損しており、不法行為に当たると認定。橋下弁護士に1人当たり200万円の賠償を命じた。
 訴状などによると、橋下弁護士は昨年5月に放送されたテレビ番組「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ制作)で、差し戻し控訴審の弁護団を批判し、「もし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に懲戒請求をかけてもらいたい」「10万人とか見てる人が懲戒請求かけてくださったら、弁護士会としても処分を出さないわけにはいかない」と発言。放送後、4人が所属する広島弁護士会に大量の懲戒請求が出された。

 へー、こんな理不尽な判決が出るんだね。裁判官はアホか!やはり裁判員制度が導入されるわけがわかったよ。司法に浸かっている人たちは、一般人の人の感覚がわからないのだろう。証拠のあるなし、未成年であるかどうかなどばかり判断の基準にあり、普通の感覚でなくなってしまうのだろう。今回の件でも、元々は犯人の少年にくだらない入れ知恵をし、極悪非道な犯人を弁護している弁護士に渇を入れただけだろうに。彼らが名誉毀損を受け、業務に支障が出ただと?全く盗人猛々しいとはこのことだ。彼らに人を弁護するしかくなどない。主婦を強姦し、幼児を床に叩きつけて殺した?こんな奴、死刑しかないだろうが!もっとも死刑廃止弁護士など、存在する意味もない。何せいくら悪さをしても死刑にさせなていけないと訴え続けるのだからね。アホを通り越してバカだね。いや中毒と言うか、自分たちの主義主張に酔っているのLだろう。このような弁護士がいる限り、日本の法曹界は麻痺したままだろう。何せ、悪党を弁護してしまうのだからね。彼らの子供はきっと不良になるだろうね。何せ、人に善悪を教えられないのだから。自分の子供が万引きしても、子供をかばってしまうのだろうね。こんなクズが世の中に存在するか日本は規範意識がなくなっていくんだよ。
 麻原は林真須美が何故まだ死刑にならないのだろう。あんな連中は、市中引き回し、火炙の刑でも余りある。そう考えている日本人は多いだろう。
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コメント

なだいなだ『人間、この非人間的なもの』[ケシカラニズム考]より。※ケシカラニズムは、なだ氏の造語です。

「ケシカランというのは、個人の感情としては、怒りにむすびついています。しかし、個人の怒りが、防衛本能に結びついていて、自分が他人によって傷つけられ、いためつけられることによって生まれ、そこまで押しこめられていた攻撃性の蓋をとることになるのに対して、ケシカラン感情は、それにどう結びつくのでしょう。

 自分はなにも傷つけられていない。傷つけられて怒っているのは他人。その怒りを見て、「それがどうした」と いっていらられれば、自分とその男の間には、なんのつながりもありません。もし、その男の怒りの対象に対して、自分もケシカランという感情を持つことができれば、そこにケシカラニズムによる人間間の連帯が生まれます。その男の怒りの対象に、ケシカランと思う第三者たち同志も、それによって結びつけられるのです。

その点では、ケシカラン感情は、社会正義の感覚の出発点をなしているのだといえます。自分の知らぬ、第三者と第三者との間の争いを傍観することができなくなり、どちらかの立場へと立たせるもの、それがケシカラン感情であり、その時の自分の行動を正当化するものとして、社会正義が必要とされるのです。もし「それがどうした」とつぶやいていたら、そこには社会正義は生まれないでしょう。

しかし、このケシカラニズムと理性的社会正義の感覚とが混同されてはなりません。ケシカラニズムは、いいかえれば理性的正義ではなく、感情的正義であり、瞬間の正義であるといえるでしょう。ケシカラニズムが、感情といううつろいやすいものに結びついているのに対して、理性的社会正義はより永続的なものに固定されています。

そもそも、怒りと、それに対する報復とは孤独な人間の行動のパターンでしょうが、それが、社会的なひろがりを持つことで、法の原形は生まれたのでした。法は、報復を形式化し、個人的な報復行動を公的なもので代行させることでなりたったのです。こうして、‘個人の行動の社会化が行われるにともなって、感情の社会化が行われ’、怒りは、ケシカランに変り、社会化された報復行動を支持する、社会正義へと変形していったのです。
私たちは、民衆の社会正義感覚にもとづいた連帯に、ケシカラニズムの基盤があることを認めねばなりません。

それは、感覚的正義であり瞬間的正義であり、純粋正義であるので、民衆運動の原点だといえます。しかし、同時に、それこそが、私たちをファシズムへ参加させる危険を持つものでもあるのです。社会正義的感覚のみじかさが、持続のなさが、その原因なのですが、過去において、ケシカラニズム的な日常感覚が、ナチズムにどれだけ味方したかを考えれば、これからもよほど注意しなければならないでしょう。」


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